red-earth's blog

(2017.6.25)red-earth’s diary から移行しました。女性ヴォーカル好き、写真好き…

気配

今月からM先生の教室の新しい年度が始まった。
7月からというのは「13の月の暦」の新年と重なるので
始まりの月にふさわしい。


初めての人たちばかりだから写真を見るのが楽しみだった。
石仏ばかりを撮っている人、もののあわれを撮る人、
室内で季節の野菜を撮る人、10数人の写真はそれぞれで
人の数だけ作風があるということだと思った。


M先生の言われたのは「気配」について。

「なにかの気配、誰かの気配を写すというのは
心眼で見たものを写すことでもある。それは、もののあわれにも通じる。

ものを見る目、感じる心を意識して撮ってみる。
気配が写っている写真は奥が深い」


そういう気配が感じられる写真を持ってきている人が何人かいた。
「気配」というキーワードで見てみると
確かに何かの「気配」のある写真は私にも分かる。


言い方を変えると「思わせぶり」な写真でもあるだろうと思う。
見る人のイメージが膨らむ写真、
ただそこに写っている以上のものが見えてくることが
写真には必要とされるのだ。


態度や会話が「思わせぶり」な人がいるが
そういう人が写真を撮ったら面白い写真になるかもしれない。


「思わせぶり」が「気配」と違うのは
思わせぶりには、意識して言わない、言ってあげない、そのように見せかける、というニュアンスがあるが、気配は単に気配であって、そういう感情的なことがないことだろうか…


思わせぶりは「はったり」や「臭わせる」を連想させる。

それをする人の意図と結びついて、その人の精神性までが現れ出でる。
だから思わせぶりな人との会話は心地良くないのだろうと思う。
とすると、思わせぶりな人の撮る思わせぶりな写真も
気配の写真とは似ていても、全く異質なものが感じ取れるかもしれない。
もしかしたら、心地良くない写真であるかもしれない…たぶん、そうだ。


M先生の言われた「気配」は、いろいろ考えさせる言葉だった。