red-earth's blog

(2017.6.25)red-earth’s diary から移行しました。女性ヴォーカル好き、写真好き…

写真教室

木曜日、隔週の写真教室の日。


今回の課題は「蜃気楼」だった。
「蜃気楼」と聞いて浮かんだイメージは
ゆらゆら、靄っている、朧、不安定、儚さ、異国の街、幻、時空を超えて…等々、色々なイメージが一気に押し寄せてきた。


水面が揺れる、そこに映り込むものの微かな残像…
初めは、こんな風な写真を撮ろうかと思っていた。


次に、時空を超えて見える幻のようなものを撮れないかと思った。
神社の赤い鳥居の向こう側に違う世界が滲み出しているような
鳥居の向こうがモヤモヤ、ユラユラと不安定に揺れて
どこか別の世界が垣間見えるような写真が撮りたいと思った。


考えているうちに
この世界に在るものや人の営みは全て「幻のようなもの」「幻覚」だと言えるのではないか、そういう考え方からすれば、何を撮っても「蜃気楼のようなもの」…つまり、どんな写真でもいいのではないだろうか…
こんな具合に段々、お題「蜃気楼」の焦点が定まらなくなってしまった。


2週間はあっという間に過ぎていく。
今まで撮った写真を眺めてみても持って行く写真は決まらない。あまりに広義にイメージを持ってしまったので自分の中で収拾がつかなくなったのだ。


教室の前日、「蜃気楼」のイメージを絞ることに窮した私は「蜃気楼」の名前を持つ食事処に出かけた。「ごはんや蜃気楼」という町家を改装した和食の店、ここのランチを楽しみながら、そこで撮った数枚を私の「蜃気楼写真」にしてしまった。


どうせ撮るのなら、じっくり、ゆっくり店内を撮ればいいのに
実際には素早く片づけるような、心のない撮り方をしてしまった。
それは蜃気楼という店に来たことが分かればいい…という程度の写真で、
私はアリバイ作りのような写真を撮ってしまったのだった。
そんな写真ならば、課題を持って行かない選択肢のほうが良かったかもしれない。(でもこれは持って行ったからこその気付きだったとも言える)


試行錯誤して「蜃気楼」について考え抜いた写真や
明確なイメージの下に撮られた写真や
見せてもらった皆の写真は意識的で心がそこにあることが、よく分かる。


写真には「心の状態」までが写し出される。
カメラに向き合う姿勢を考えさせられた。
私は、この日を無駄にはしない。


(持って行かなかった写真いろいろ)